ケニア ナイロビ鉄道博物館

ナイロビ駅正面入口
  ケニアの首都ナイロビの駅に隣接して鉄道博物館がある。1990年11月にここを訪ねた。
この博物館は、1971年に東アフリカ鉄道港湾会社(EAR:当時ケニア・ウガンダ・タンザニア3カ国にまたがる鉄道網を運営していた)が設立し、1978年からはケニア鉄道会社(KNR)が管理していた。

アフリカの鉄道というと、ガーラット式という独特の構造の蒸気機関車を連想する。普通の機関車は、動輪や先従輪を支える台枠の上に、ボイラーと運転室を載せた構造になっているが、ガーラット式は水槽や石炭庫だけを載せた足回りを2組並べて、その間に橋渡すようにボイラーと運転室が載っている不思議な形をしている。
 
 
  1948年に設立されたEARは鉄道車輌の形式番号を整理したが、この時57形となったこの機関車は1939年から導入されたガーラット式で、先輪2軸、動輪4軸、従輪2軸という、これだけでも普通の機関車1輌に匹敵する足回りを2組備えていて、運転整備重量は186トンもある。
イギリスのベヤー・ピーコック社で製造されたこの形式は12輌配置され、1968年まで活躍した。保存機は5711号機だが旧番号87のプレートををつけている。

EARの鉄道網はメーターゲージ(1000mm)である。これは1896年にインド洋に面したモンバサから、内陸のビクトリア湖に向けて鉄道の建設を始めたとき、インド人の労働者と共に、既にインドで普及していたメーターゲージの機関車や貨車を建設工事用に使用できるからだったと言われている。
この鉄道はモンバサから500kmほどは平野部を走るが、そこから高原地帯に向けて勾配を上り、標高2700m程度のサミットを越えてからビクトリア湖に向けて下って行く。平野部では2頭の人喰いライオンによる犠牲者も続出して工事の中断もあったが、延長930kmの線路敷設を終えてビクトリア湖畔のフローレンス(現在のキスム)に到達したのは1901年12月だった。
ベヤー・ピーコック社で1939年にブラジル鉄道向けに設計された機関車が、第二次大戦の影響で製造を中止したが、1944年にイギリス軍部が東南アジア向けとして製造を指示し、20輌が製造された。このうちの2輌が1945年にケニア・ウガンダ鉄道(KURH)に納入されEC5形(後の55形)となった。1952年にはビルマ鉄道で使われていた他の9両もケニアに移籍し、1976年まで活躍した。(右も)5505号機  
 
     
この鉄道は勾配区間が多いため、1913年にイギリス製のマレー式(動輪3軸を2組装備した特殊構造の機関車)を導入したが、性能が芳しくなく故障も多かったため、1926年にベヤー・ピーコック社からガーラット式の機関車4輌を輸入して使用を始めた。その性能に満足したため、次々にピーコック社にガーラット式の機関車を発注して、この鉄道の主力としていった。

1955年には、メーターゲージの鉄道としては世界最強と言われる59形が登場した。この機関車は千分の15の上り勾配を1200トンの列車を牽引して走ることを目標に設計されたもので、燃料(重油)や水を積載した運転整備重量が252トンという大きさである。総勢34輌が配置されて1980年まで活躍した。この機関車の動輪直径は4フィート6インチ(1372mm)である。
博物館訪問時には5930号と5918号が展示されていたが、その後5918号は整備されて現在は動態保存となっている。
 
 
     
  1954年から配置された60形は55形等と同じ中型機で、29輌がウガンダやタンザニアでも活躍した。

この後、運転整備重量350トンという巨大なガーラット61形が設計されたが、製造されることなく設計図のみで終わった。
     

<Macmillan Kenya Traveller's Mapから加工>
  この博物館では「目立たない存在」である普通の構造の機関車24形2401号機は、1923年以降バルカン・ファンドリィ社で製造されたもので(先輪2軸、動輪4軸)、性能も良く総勢62両が活躍した。
その後、同形機の2409号機がこの博物館で整備されて動態保存となり、特別列車をも牽いている。
 ケニア鉄道会社(KNR)は、2006年11月に25年間のコンセッション契約でリフトヴァレイ鉄道に経営を譲り民営化された。
鉄道博物館と保存車輌はその後、ケニア国立博物館に移管された。現在、動態保存されている蒸気機関車は、ガーラット式の5918号と、普通形の2409号、そして3020号(ノース・ブリティッシュ社製、先輪1軸、動輪4軸、従輪2軸)の3輌がある。
現在の博物館長はこれらを使った特別列車運転の実現に積極的で、リフトヴァレイ鉄道側と交渉していると言う。
     
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