シリア ヒジャーズ鉄道
1993年1月19日午前7時、シリアの首都ダマスカスにあるヒジャーズ駅へ行くと、貨物列車の先頭で機関車が蒸気を上げていた。天気は良いが駅構内は中層の建物の谷間で日陰になっていた。
事前に調べたところでは、シリア国内で蒸気機関車が運転されている情報は無かったが、2日前にカダムの機関区で聞くと、不定期の貨物列車がこの日走ると言われたのだ。
機関助士に頼んでキャブの中の写真を撮らせてもらっていると、彼はヤカンを洗っていた。機関車のお湯でお茶を飲むつもりだろうか。
7時半を過ぎた頃に高い音色の汽笛が鳴り、260号機関車が列車をゆっくり牽き出した。日陰の中を動き出したカマをファインダーの中で追っていると、建物の隙間から差し込んだ朝陽を横切り始め、突然ボイラーとドームが輝いた。
 
   
 
     
この列車はダマスカスから南下し、ヨルダン国境に近いデラアという駅まで、123kmを走る。ダマスカスの町を出ると荒涼とした土地が続いていた。詳しい道路地図も無く、線路から離れない道を走るようにレンタカーの運転手に指示しながら、列車を追って行った。   はるか西の方にはレバノンとの国境に連なる山地が見えた。山頂は雪で覆われていた。建物も森も無い大平原を走る区間が多く、遠くに機関車が吐く白煙が確認できた。地図で見ると、そこまで5km以上は離れているようだった。道路が近づく場所へ先回りして何度か撮影できた。
 
     
道路が線路をオーバークロスする場所で列車を待った。地平線上に白い煙が見えてから何分待っただろうか。近くまで来てから機関車は絶気して減速し、道路橋の下を通過した。   道路橋の反対側に信号場があって列車は停車した。いつ発車するか判らないが、機関車の近くまで歩いていくことにした。
 
     
信号場の近くには農家があるだけ。左手の石造りの廃屋は元は鉄道施設だったのだろうか。機関車の周りで写真を撮っていると、機関士が話しかけてきて、運転室に添乗しないかと言う。   ここまで何度か沿線で先回りしてカメラを向けていたので、こちらの熱意が伝わったようだ。機関士が流暢な英語を話したのは意外だった。レンタカーの運転手に車を回送して先の駅で待っているようにアラビア語で伝えるのに苦労した。
 
     
機関車が走り出すと、キャブの振動は激しかった。ドアが無いので、うっかり写真を撮っていると外へ転げ落ちかねない。テンダー側に握り棒が立っていて、その先端の球を握っていると安定感があった。   機関士に聞くと、この区間では週2〜3往復の貨物列車が運転されているという。貨車はデラアの先、国境を越えてヨルダンに向かうらしい。ダマスカスとヨルダンの首都アンマン駅の間には、夜行の国際列車が週1往復走っている。
 
     
エツラという駅に到着。レンタカーは指示通りここで待っていた。   機関助士が足回りを点検して注油していた。ここで機関車を降りて、終点デラアへ車で向かった。
 
     
  列車がデラアの駅に到着した。12時40分、ダマスカスを朝出てから5時間余りの行路だった。

ダマスカスからデラアまでの区間は、ヒジャーズ鉄道の起点に当たる。20世紀初頭、オスマン帝国はイスラム教の聖地メディナまで巡礼鉄道を建設するとして、世界中のイスラム教徒から寄付を集め、国を挙げて延長1300kmに及ぶこのヒジャーズ鉄道を1908年に開通させた。巡礼鉄道と言いつつも、真意は帝国の軍隊をアラビア半島に速やかに展開する目的があった。軌間は1050mmという特殊な規格である。
第一次世界大戦でドイツと組んだオスマン帝国に対し、イギリスがエジプト側から進軍した。アラビアのローレンスが率いるアラブ反乱軍が、この線路を各地で爆破し損害を与えた。
  1918年に入るとオスマン帝国側の劣勢は確実となり、ダマスカスとメディナを結ぶ列車としては4月に走ったものが最後となった。9月になるとイギリス軍によるデラア空爆も始まった。10月1日にアラブ・イギリス軍がダマスカスへ侵攻し、オスマン・独軍は撤退した。
この時、ヒジャーズ鉄道はドイツのハルトマン社にこの形式の機関車を22輌発注していた。そのうち最初の9輌が納入されて254〜262号となった直後に、ダマスカスが陥落した。次の3輌は、進駐したイギリス人技師によってカデム機関区で組み立てられ、263〜265号となった。
残る10輌はメーカーで製造したものの中東に輸送されることなく、ジャワ鉄道向けに転用され、インドネシア国鉄のD51型01〜10号となった。(アンバラワ博物館のページで紹介している)
     
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