パレスチナ鉄道 廃線跡
 昨年末からパレスチナ自治政府のガザ地区がイスラエルに攻撃され、多数の死傷者が出て連日ニュースをにぎわせていた。現在はガザ地区には鉄道は無いが、第一次世界大戦の頃に、ここに標準ゲージ(1435mm)の鉄道が敷かれ、ガザ駅があった。この鉄道は、オスマン帝国軍を撃破するためにエジプト側からシナイ半島北部を東進した英国軍が敷設していったものである。
 第一次大戦後、この地域一体はイギリスの委任統治領となってパレスチナ鉄道の営業が始まり、1920年代にはスエズ運河の東側(カンタラ東駅)から地中海沿岸に沿ってガザを通過して北上し、現在のイスラエル北部にある都市ハイファまでの直通列車が運転されていた。
 
しかし1948年にイスラエルが独立宣言し、第一次中東戦争の結果エジプトの占領地となったガザとその北に接するイスラエルとの間の鉄道運行は閉ざされ、その後線路も撤去されていった。
  2000年4月2日、ガザ中央部のネッツサリムという地区で舗装道路に埋まったレールを発見した。当時は比較的平和な時代で、外国人も容易にガザ地区に入ることができた。ガザ駅の跡地は、既に街の一部と化していた。ガザ地区南方の線路跡地と平行していたと思われる道路には、古レールを使ったガードレールも一部にはあった。しかし間違いなく「ここに線路があった」という証拠がこのレールだ。
 鉄道が営業していた当時からここは踏切だったようだ。路面電車のレールの断面形状のように見える。1本のレールだけが残されていた。
 
     
ガザの南にあるラファハはエジプト国境近くにあるガザの街で、今回のガザ侵攻のニュースでは生活用品や武器を密輸したトンネルがエジプト側との間に多数掘られていたと報道されていた場所。
 リッダは現在テルアビブ国際空港がある辺り、トルカレム、ナブルスは現在パレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区の街だ。
   2000年6月にイスラエルのハイファ鉄道博物館を訪ねた時、展示物の中に1930年代の時刻表を見つけた。そこにはハイファからカンタラ東までの列車、そしてスエズ運河を渡った西側から更にカイロまで連絡する列車の時刻が載っていた。
 ハイファからガザまで176km、その先カンタラ東までが238kmあった。当時、朝ハイファを出る列車に乗れば、夕刻スエズ運河の東岸に着き、フェリーで運河の西岸に渡った後、列車に乗り換えてその日のうちにカイロに到着することができたようだ。
 
     
 地図に記したハイファ、トルカレムの東方に延びている緑色の線は、ヒジャーズ鉄道の支線で、シリアのデラア駅から西へ分岐してこの辺りに延びてきていた。こちらはヒジャーズ鉄道本線と同じ1050mmゲージと言う特殊な規格の線路だ。
 2000年3月に地図を頼りにその廃線跡を追ってみたところ、マスウディという分岐駅の跡地に、石造りの駅舎の跡が残っているのを発見した。
 駅構内の敷地は線路配置の跡が想像できるぐらいに残されていて、構内外れには蒸気機関車のアッシュピット(灰落とし)と給水ポートのパイプの跡までが残っていた。
 駅から東方に線路のあった方向に歩いてみると、築堤が右へカーブして続いていく様子が見えた。
 
 
     
トルカレムの東方に石造りのアーチ橋が残されていた。
これらの駅や構造物が残されていた場所は、現在はパレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区にある。
  アナブタという街の近くには、鉄道橋が道路の上を横切っていた場所に石造りの橋台が残されていた。
 
     
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